@金魚の種苗 A飼育・鑑賞者 B飼育技術 の3条件が江戸時代の津軽に揃っていたことは分かりました。
その上になに事かが起こって、封建時代が終わってみると、「津軽錦」という新品種の金魚が出来ていたのです。
昔、津軽に渡来した金魚に何が起こったのでしょうか?
昭和26年、弘前市図書館の古文書の中から一冊の写本が発見されました。
「金魚養玩草」という日本最古の金魚技術書です。当時の図書館長成田末五郎氏はこの写本になにかを感じ取られたのでしょう。
非常な手間をかけてガリ版でこれを復刻して、金五十円で頒布したのです。
私も読みましたが、かねて予期していたとはいえ、やはり衝撃を受けました。
この写本は、異種の金魚を交配して雑種を作る技術が津軽に伝わっていたことをはっきり示す証拠となるものでした。
文中に、「右五カ条ニテ金魚をカフ伝授ノ事コレヨリ外ニナシ疑ウヘカラス」として朝鮮金魚の繁殖法が書いてあります。
「只ノ金魚ノ女魚一ツ朝鮮金魚の男魚一ツ(泉水ノ中二)入レ春マデ置クヘシ、秋冬ノウチニ孕ムナリ、此ノ仔ミナミナオトシ也」
「只ノ金魚」は、すでに普及しているワキンのような普通の金魚です。そのメスと朝鮮金魚のオスを同居させよ、
孕んだ仔魚はみな貴重な朝鮮金魚のご落胤になるものぞよ、という意味です。
生物学は事実を語らずに思想を語ることがあります。
金魚養玩草の秘伝、つまり江戸時代の遺伝学は、女の腹は借り物で男性の遺伝子だけが子に伝わる、という驚くべき思想を語っています。
さて、金魚を飼う津軽の謹厳実直な武士達はこの記事を疑うはずはありません。
ゆめ疑わず、殿様に献上された朝鮮金魚にこの技術を適用すればどんなことになるか。
生まれる子魚は全部背ビレが生えて、朝鮮金魚とは全く別の雑種になってしまうはず。
武士達の周章狼狽ぶりが目に浮かぶようです。
私も昭和33年の津軽錦復元のための最初の交配で、同じような混乱に陥ったからです。
陸の孤島であった昔の津軽では朝鮮金魚は二度と手に入りません。
献上された朝鮮金魚を作る方法はただ一つ、生まれた雑種同士を交配して、朝鮮金魚に似た背ビレ無し金魚の出現に期待するほかありません。
このような雑種の累代交配によって朝鮮金魚らしい背ビレのない魚は、5〜10年後には出現したかもしれません。
しかし、生まれる子魚がすべて殿様の金魚に似るようになるまでには、20年余の歳月を要したことでしょう。
朝鮮金魚が献上されてから約20年後(天明年間)に、金魚飼育の代表者だった斉藤勘蔵、柿崎某などの武士達もその苦労の一端を担ったかもしれません。
奇怪なことを文献は誌しています。津軽錦は「往時、隠蔽して飼育された」というのです。
殿様の金魚とは似ても似つかぬ雑種の金魚、武士達は、この金魚を人目から隠して口を閉ざすほかなかった、とでも言うのでしょうか。
殿様に金魚が献上されてから40〜50年後の文化年間に至って、金魚はようやく大衆化され、武士のほか町人にも飼育研究者が現れます。
このころには、金魚の姿、形も次第に整い、朝鮮金魚(ランチュウ)とは異なるけれども、「地金魚」(津軽錦)と名乗る特別な品種ができていたようです。
殿様の金魚騒動は遠い伝説となって、津軽は明治に入りました。
江戸時代から津軽地方で飼われていた「津軽錦」は「地元の金魚」という意味でジキン、またはジキンギョと呼ばれて、明治以降も津軽地方で飼育されていました。
「津軽錦」と命名されたのは昭和2年だそうです。
ところが、昭和10年(1935)に松井佳一博士が全国の金魚を調査したときに、この金魚は新種の金魚であることを発見したのです。その特徴は、「背鰭が無く、尾鰭が長い」
という点でしたが、当時は未開の文化果てる青森で、独自の金魚が作られて江戸時代から連錦と伝えられたことがなによりも驚きだったようです。
そんな事件などがあって、津軽錦の飼育は次第に盛んになり、昭和の初期には品評会なども開催されていたそうです。
しかし、まもなく太平洋戦争が起こり、戦いが終わってみると、津軽錦という金魚は絶滅していたのです。絶滅の理由はいろいろに語られますが、戦前からの飼育者は、
「この金魚は、当時、中央から移入される派手な金魚(ランチュウやオランダシシガシラなどの高級魚)に比べて見劣りする」という点であった、と言います。
特に@褪色が遅く、3、4歳でなければ赤くならない。A背鰭を欠き、尾の長い良刑の魚が少ないといった欠点から、他の金魚より価値は低かったようです。
その結果、昭和23年に青森県庁が北海道大学に委託して「水産資源調査」(資料:文献)を行ったときには、「新聞、ラヂオで県民に呼びかけ、親魚の収集に努めたが、ようやくメス2匹を発見しただけで、津軽錦の増殖は著しく困難となった」
と記載されています。(なお、このとき発見されたメス2匹は、津軽錦ではなかったという論文が残っています。)
要するに、この時点で江戸時代から伝わる「津軽錦」は絶滅していたのです。