歴史

津軽錦誕生の歴史を探ってみました
(1) 日本に渡ってから変化した金魚
(2) 津軽藩に金魚はいつ伝わったか
(3) 金魚の飼育集団
(4) 飼育技術
(5) 津軽錦は「どうして」できたか
(6) 女魚、秋冬ノウチニ孕ムナリ
(7) 津軽錦は太平洋戦争中に亡んだ
(8) 津軽錦の復元
(9) 余談ですが
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(8) 津軽錦の復元

津軽錦の復元までの経過は、文献(三輪:交雑によるツガルニシキ型の育種と古津軽錦の起源)に述べました。補足しますが、

@交配親は「背鰭のない魚=ランチュウ」「尾の長い魚=アズマニシキ」
オランダシシガシラを交配親とすべきでしょうが、昭和32年当時これを入手できなかったのでアズマニシキを用いました。
(復元したツガルニシキにモザイク性の魚が現れるのはそのためです。)

A津軽錦に似た形の金魚が最初に現れたのは1963年で、交配実験を開始してから5年目、仔魚1000尾につき4〜6尾の割合で現れています。


交雑初期の実験魚
「最初のツガルニシキ」(1963孵化) 「越冬に失敗」(1969冬)
↑「最初のツガルニシキ」(1963孵化) ↑「越冬に失敗」(1969冬)

しかし、これで津軽錦が出来たとは言えません。品種として固定することが肝腎です。それを目指して、以後は外界からの金魚移入を断って、累代交配を続けます。
その結果、背鰭の欠如性はごく僅かづつ改善しましたが、ひとつを解消すればまたひとつと、新たにさまざまな奇形の仔魚が現れます。
これらの欠陥も交配・淘汰によって解消していかなければなりません。

Bとくに背鰭の欠如の遺伝は、複雑な法則に従うものらしく、背鰭を欠く方向へ交配・淘汰をすすめると、さまざまな疑問に直面します。
たとえば、両親とも完全に背鰭を欠くカップルから生まれた仔魚でも、すべての仔魚が背鰭を欠くのではなく、完全な背鰭があるもの、背鰭の一部分があるもの、背部に凹凸や突起があるものなどの欠陥をもつ個体が現れます。
それらの出現の頻度は実験の初期に多く現れます。例をあげましょう。


(1967年交配 ♂=1965年生 × ♀=1965年生)(F4×F4)
完全な背鰭あり 81尾
背鰭の一部あり 402尾
背鰭欠如 127尾(突起・凹凸を含む)


(1976年交配 ♂=1974年生 × ♀=1974年生)(F9×F9)
完全な背鰭あり 8尾
背鰭の一部あり 63尾
背鰭欠如 116尾


(1985年交配 ♂=1983年生 × ♀=1983年生)(F14×F14)
完全な背鰭あり 0尾
背鰭の一部あり 29尾(突起・凹凸を含む)
背鰭欠如 127尾



このような交配・淘汰を続けて、もういつまで続ければ終わるのか、とあきらめ頃になって、「実験中の金魚は成魚、稚魚とも、戦前の津軽錦に優る良魚だ」との評価を受けました。
一尾づつ手にとって検分された方は竹内誠一郎先生(東北らんちゅう会副会長、故人)先生は戦前に津軽錦を飼育し、改良を試みた経験を持つ唯一人の方でした。
先生の厳しいご指導がなければ、津軽錦の復元などはできなかった、と思います。
この間の時間をみると、

復元を志して、魚を手にとって実験開始したのが 1959年
最初に背鰭なし尾長の個体が現れたのが 1963年
固有の品種として固定したと公表 1986年

費やした時間27年の大部分は品種として固定するための時間だった、と思います。


(9) 余談ですが

これまで実験材料となった何十万尾の金魚はどうなったのでしょう。
最初は河川に放流などしていましたが、銘魚とよばれる品質のものがぽつぽつ出来るようになって、愛好者が貰い受けるようになりました。
郊外の農業用溜池に、戦前からの津軽錦が生きていた、などの作り話が流布されたのも昭和42年からです。
県内のほか、室蘭・苫小牧方面や秋田大館方面にも津軽錦が存在する、との金魚専門書の記事には驚きましたが、これはどうやら、昭和44年頃から、出入りの宝飾品の行商人がせっせと運んだ金魚のようです。私は津軽錦を知らない県外に流れるのであれば、騒ぎにはなるまい、と考えて油断していました。
とにかく、当初は「クズやお払い」と触れ歩くクズ屋さんにしか、この金魚を貰っていただけませんでしたので、処分には困っていました。

交配に使用した親魚などは、共同研究者であった知人(三上 登氏)の池や農業用溜池などに放流していました。
当時の写真が残っています。写っている魚は昭和38年頃に孵化して親魚となって、廃棄されたものらしいのですが、
モザイク鱗を含み、背ビレの欠如性もかなり良い魚のようです。


「知人(三上登さん)の池に放流される実験済みの津軽錦」(モザイク透明鱗)
↑「知人(三上登さん)の池に放流される実験済みの津軽錦」(モザイク透明鱗)