歴史

津軽錦誕生の歴史を探ってみました
(1) 日本に渡ってから変化した金魚
(2) 津軽藩に金魚はいつ伝わったか
(3) 金魚の飼育集団
(4) 飼育技術
(5) 津軽錦は「どうして」できたか
(6) 女魚、秋冬ノウチニ孕ムナリ
(7) 津軽錦は太平洋戦争中に亡んだ
(8) 津軽錦の復元
(9) 余談ですが
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「津軽錦」は江戸時代から青森県津軽地方で飼育されてきた独特の金魚です。
この「背ビレが無く、尾ビレが長い」という特徴をもつ金魚は、日本では類例の無い新品種の金魚でした。
そのことは、1935年に松井佳一博士が論文で紹介されました。
この独特の金魚が、いつ、どうして津軽に発生したか、を考えます。


(1) 日本に渡ってから変化した金魚

中国原産の金魚(Garassius auratus)が日本に初めて渡来したのは1500年頃といわれます。
以後、さかんに愛玩・飼育されて、珍しい形の金魚も出来ました。
江戸時代に日本で作られて、21世紀の現代まで伝わっている品種に、
 愛知県の「ナゴヤジキン」
 近畿地方の「オオサカランチュウ」
 島根県の「イズモナンキン」
 高知県の「トサキン」
 青森県の「ツガルニシキ」の5品種があります。


(2) 津軽藩に金魚はいつ伝わったか

この年表はこれまで知られた文献から作りました。
松井佳一博士が紹介するように、津軽には1701年(元禄)と1760年代(明和年間)の二回の渡来記録があるようです。
注目されるのは明和年間の記事で、京都から、小和田某という家臣が、八代藩主津軽信明(当時四歳)に献上した、と具体的な記述で、史実として信用できます。
移入した金魚は、元禄の金魚は不明ですが、明和の献上金魚は高価な「朝鮮金魚」(ランチュウの原型)だった可能性があります。
なお輸送は、京都・弘前間の陸路では困難をきわめますが、北前船(日本海航路)によれば、短期間に容易に運搬できた筈です。
しかし、たいへん高価な金魚を大金を投じて津軽に移入する機会はそうありませんから、移入された金魚は孤立したまま独自に繁殖したことでしょう。


津軽地方の金魚の移入と当時の国内事情
津軽地方の記録年号
(西暦)
国内においての記録
15001500(文亀2) 人皇105代後柏原院の正月20日、泉州左海に金魚伝来
1540(天文11) ポルトガル船種子島漂着、鉄砲を伝来
1550(天文19) 津軽為信生まれる1550
1570(元亀2) 為信、石川城、和徳城を急襲
1590(天正18) 為信、秀吉に謁見して津軽三郡領有の承認を得る1582(天正10) 本能寺の変
16001600(慶長5) 関ヶ原の戦い
1612(慶長17) 「多識編」(林道春)に金魚の記事、コガネウオ、シロガネウオという
1629(寛永6) 「大和本草」(貝原篤信)「金魚、昔は日本になし、今世に飼う者多し」金魚の生態記録あり
1650
1661(寛文1) 津軽藩日記開始1677(延宝5) 江戸に金魚屋現れる。屋号は鎭鑄屋名は重右衛門
1694(元禄7) 江戸中の商家より没収金魚70余尾を藤沢遊行寺の池に放つ
1696(元禄9) 江戸に金魚飼育届出制敷かれる
1701(元禄14) 3月、津軽信政公、播州・大阪より白魚、鯉、鰻の諸魚を下し繁殖の資となさしむ1700
1712(正徳1) 寺島良安ワキンの絵を描くこの頃、朝鮮金魚あり。大阪で背鰭の欠如する魚を愛好。名古屋にジキン現れる
明和年間(1764〜1772) 小和田覚兵衛、金魚を京都より持参し藩主土佐守信明公に献上17501748(寛延1) 「金魚養玩草」を安達喜之著作
天明年間(1781〜1788) 斉藤勘蔵、柿崎某、代表的金魚飼育者1771(明和8) 春信、歌麿など、ワキン、ランチュウの絵を描く
文化年間(1804〜1817) 金魚大衆化し工藤末次郎、船水某、代表的金魚飼育者18001800(寛政12) 長崎見聞録」シシガシラ金魚の記事あり
1825(文政8) リュウキン一般に普及(職人尽し歌)
1831(天保2) 8月伊藤氏、金魚養玩草を写本(石見文庫・弘前図書館蔵)1830(天保1) 國安、國貞、ガラス鉢のリュウキンを描く
18501861(文久1) 信州でリュウキン見世物となる
1887(明治20) 成田俊一、熊谷安吉、宮本喜三郎が代表的金魚飼育者1867(慶応3) 大政奉還
1895(明治28) デメキン、中国より輸入される
19001902(明治35) 頂天眼、中国より輸入される

(3) 金魚の飼育集団

珍しい金魚が津軽に伝来した明和年間から約20年後の(天明年間)に、弘前城下に金魚飼育者の集団が現れ、代表者の氏名が記録に残っています。
その氏名から推測されるのですが、天明年間の「斉藤勘蔵」はお城勤めの上士「柿崎某」はふだん農耕を営む下級武士。身分はものすごく違いますが、いずれも武士で、当時の津軽藩では武士だけが金魚飼育を許されたのでしょう。
また、文化年間の「工藤末次郎」も上士、「船水某」は下級武士です。
ふだん、口も聞かないほど厳しい身分の差がある二つの金魚飼育集団があって、それぞれどんな金魚を飼っていたのでしょうか。
なお、文献には「隠蔽して」この金魚が飼育された、と記されています。
「殿様の金魚」というものがどんなに重い意味を持つか、私達には想像もつきかねます。


(4) 飼育技術

日本で最も古い金魚の技術書とされる「金魚養玩草」(写本)が弘前市立図書館から発見されています(昭和28年)。
この書物の内容には疑問の部分もありますが、当時としては、それなりに合理的な飼育技術が模索された跡が窺われます。
このような書物の他に、多くの飼育者の体験から膨大な「金魚文化」が蓄積され、後世に伝承された筈です。
例えば、餌の採集のノウハウとか、津軽のような寒冷地の金魚の越冬のさせ方などは文献にも残っています。


(5) 津軽錦は「どうして」できたか

@金魚の種苗 A飼育・鑑賞者 B飼育技術 の3条件が江戸時代の津軽に揃っていたことは分かりました。
その上になに事かが起こって、封建時代が終わってみると、「津軽錦」という新品種の金魚が出来ていたのです。
昔、津軽に渡来した金魚に何が起こったのでしょうか?


(6) 女魚、秋冬ノウチニ孕ムナリ

昭和26年、弘前市図書館の古文書の中から一冊の写本が発見されました。
「金魚養玩草」という日本最古の金魚技術書です。当時の図書館長成田末五郎氏はこの写本になにかを感じ取られたのでしょう。
非常な手間をかけてガリ版でこれを復刻して、金五十円で頒布したのです。
私も読みましたが、かねて予期していたとはいえ、やはり衝撃を受けました。
この写本は、異種の金魚を交配して雑種を作る技術が津軽に伝わっていたことをはっきり示す証拠となるものでした。
文中に、「右五カ条ニテ金魚をカフ伝授ノ事コレヨリ外ニナシ疑ウヘカラス」として朝鮮金魚の繁殖法が書いてあります。
「只ノ金魚ノ女魚一ツ朝鮮金魚の男魚一ツ(泉水ノ中二)入レ春マデ置クヘシ、秋冬ノウチニ孕ムナリ、此ノ仔ミナミナオトシ也」
「只ノ金魚」は、すでに普及しているワキンのような普通の金魚です。そのメスと朝鮮金魚のオスを同居させよ、
孕んだ仔魚はみな貴重な朝鮮金魚のご落胤になるものぞよ、という意味です。
生物学は事実を語らずに思想を語ることがあります。
金魚養玩草の秘伝、つまり江戸時代の遺伝学は、女の腹は借り物で男性の遺伝子だけが子に伝わる、という驚くべき思想を語っています。
さて、金魚を飼う津軽の謹厳実直な武士達はこの記事を疑うはずはありません。
ゆめ疑わず、殿様に献上された朝鮮金魚にこの技術を適用すればどんなことになるか。
生まれる子魚は全部背ビレが生えて、朝鮮金魚とは全く別の雑種になってしまうはず。
武士達の周章狼狽ぶりが目に浮かぶようです。
私も昭和33年の津軽錦復元のための最初の交配で、同じような混乱に陥ったからです。
陸の孤島であった昔の津軽では朝鮮金魚は二度と手に入りません。
献上された朝鮮金魚を作る方法はただ一つ、生まれた雑種同士を交配して、朝鮮金魚に似た背ビレ無し金魚の出現に期待するほかありません。
このような雑種の累代交配によって朝鮮金魚らしい背ビレのない魚は、5〜10年後には出現したかもしれません。
しかし、生まれる子魚がすべて殿様の金魚に似るようになるまでには、20年余の歳月を要したことでしょう。
朝鮮金魚が献上されてから約20年後(天明年間)に、金魚飼育の代表者だった斉藤勘蔵、柿崎某などの武士達もその苦労の一端を担ったかもしれません。
奇怪なことを文献は誌しています。津軽錦は「往時、隠蔽して飼育された」というのです。
殿様の金魚とは似ても似つかぬ雑種の金魚、武士達は、この金魚を人目から隠して口を閉ざすほかなかった、とでも言うのでしょうか。
殿様に金魚が献上されてから40〜50年後の文化年間に至って、金魚はようやく大衆化され、武士のほか町人にも飼育研究者が現れます。
このころには、金魚の姿、形も次第に整い、朝鮮金魚(ランチュウ)とは異なるけれども、「地金魚」(津軽錦)と名乗る特別な品種ができていたようです。
殿様の金魚騒動は遠い伝説となって、津軽は明治に入りました。


(7) 津軽錦は太平洋戦争中に亡んだ

江戸時代から津軽地方で飼われていた「津軽錦」は「地元の金魚」という意味でジキン、またはジキンギョと呼ばれて、明治以降も津軽地方で飼育されていました。
「津軽錦」と命名されたのは昭和2年だそうです。
ところが、昭和10年(1935)に松井佳一博士が全国の金魚を調査したときに、この金魚は新種の金魚であることを発見したのです。その特徴は、「背鰭が無く、尾鰭が長い」 という点でしたが、当時は未開の文化果てる青森で、独自の金魚が作られて江戸時代から連錦と伝えられたことがなによりも驚きだったようです。
そんな事件などがあって、津軽錦の飼育は次第に盛んになり、昭和の初期には品評会なども開催されていたそうです。
しかし、まもなく太平洋戦争が起こり、戦いが終わってみると、津軽錦という金魚は絶滅していたのです。絶滅の理由はいろいろに語られますが、戦前からの飼育者は、 「この金魚は、当時、中央から移入される派手な金魚(ランチュウやオランダシシガシラなどの高級魚)に比べて見劣りする」という点であった、と言います。
特に@褪色が遅く、3、4歳でなければ赤くならない。A背鰭を欠き、尾の長い良刑の魚が少ないといった欠点から、他の金魚より価値は低かったようです。
その結果、昭和23年に青森県庁が北海道大学に委託して「水産資源調査」(資料:文献)を行ったときには、「新聞、ラヂオで県民に呼びかけ、親魚の収集に努めたが、ようやくメス2匹を発見しただけで、津軽錦の増殖は著しく困難となった」 と記載されています。(なお、このとき発見されたメス2匹は、津軽錦ではなかったという論文が残っています。)
要するに、この時点で江戸時代から伝わる「津軽錦」は絶滅していたのです。


(8) 津軽錦の復元

津軽錦の復元までの経過は、文献(三輪:交雑によるツガルニシキ型の育種と古津軽錦の起源)に述べました。補足しますが、

@交配親は「背鰭のない魚=ランチュウ」「尾の長い魚=アズマニシキ」
オランダシシガシラを交配親とすべきでしょうが、昭和32年当時これを入手できなかったのでアズマニシキを用いました。
(復元したツガルニシキにモザイク性の魚が現れるのはそのためです。)

A津軽錦に似た形の金魚が最初に現れたのは1963年で、交配実験を開始してから5年目、仔魚1000尾につき4〜6尾の割合で現れています。


交雑初期の実験魚
「最初のツガルニシキ」(1963孵化) 「越冬に失敗」(1969冬)
↑「最初のツガルニシキ」(1963孵化) ↑「越冬に失敗」(1969冬)

しかし、これで津軽錦が出来たとは言えません。品種として固定することが肝腎です。それを目指して、以後は外界からの金魚移入を断って、累代交配を続けます。
その結果、背鰭の欠如性はごく僅かづつ改善しましたが、ひとつを解消すればまたひとつと、新たにさまざまな奇形の仔魚が現れます。
これらの欠陥も交配・淘汰によって解消していかなければなりません。

Bとくに背鰭の欠如の遺伝は、複雑な法則に従うものらしく、背鰭を欠く方向へ交配・淘汰をすすめると、さまざまな疑問に直面します。
たとえば、両親とも完全に背鰭を欠くカップルから生まれた仔魚でも、すべての仔魚が背鰭を欠くのではなく、完全な背鰭があるもの、背鰭の一部分があるもの、背部に凹凸や突起があるものなどの欠陥をもつ個体が現れます。
それらの出現の頻度は実験の初期に多く現れます。例をあげましょう。


(1967年交配 ♂=1965年生 × ♀=1965年生)(F4×F4)
完全な背鰭あり 81尾
背鰭の一部あり 402尾
背鰭欠如 127尾(突起・凹凸を含む)


(1976年交配 ♂=1974年生 × ♀=1974年生)(F9×F9)
完全な背鰭あり 8尾
背鰭の一部あり 63尾
背鰭欠如 116尾


(1985年交配 ♂=1983年生 × ♀=1983年生)(F14×F14)
完全な背鰭あり 0尾
背鰭の一部あり 29尾(突起・凹凸を含む)
背鰭欠如 127尾



このような交配・淘汰を続けて、もういつまで続ければ終わるのか、とあきらめ頃になって、「実験中の金魚は成魚、稚魚とも、戦前の津軽錦に優る良魚だ」との評価を受けました。
一尾づつ手にとって検分された方は竹内誠一郎先生(東北らんちゅう会副会長、故人)先生は戦前に津軽錦を飼育し、改良を試みた経験を持つ唯一人の方でした。
先生の厳しいご指導がなければ、津軽錦の復元などはできなかった、と思います。
この間の時間をみると、

復元を志して、魚を手にとって実験開始したのが 1959年
最初に背鰭なし尾長の個体が現れたのが 1963年
固有の品種として固定したと公表 1986年

費やした時間27年の大部分は品種として固定するための時間だった、と思います。


(9) 余談ですが

これまで実験材料となった何十万尾の金魚はどうなったのでしょう。
最初は河川に放流などしていましたが、銘魚とよばれる品質のものがぽつぽつ出来るようになって、愛好者が貰い受けるようになりました。
郊外の農業用溜池に、戦前からの津軽錦が生きていた、などの作り話が流布されたのも昭和42年からです。
県内のほか、室蘭・苫小牧方面や秋田大館方面にも津軽錦が存在する、との金魚専門書の記事には驚きましたが、これはどうやら、昭和44年頃から、出入りの宝飾品の行商人がせっせと運んだ金魚のようです。私は津軽錦を知らない県外に流れるのであれば、騒ぎにはなるまい、と考えて油断していました。
とにかく、当初は「クズやお払い」と触れ歩くクズ屋さんにしか、この金魚を貰っていただけませんでしたので、処分には困っていました。

交配に使用した親魚などは、共同研究者であった知人(三上 登氏)の池や農業用溜池などに放流していました。
当時の写真が残っています。写っている魚は昭和38年頃に孵化して親魚となって、廃棄されたものらしいのですが、
モザイク鱗を含み、背ビレの欠如性もかなり良い魚のようです。


「知人(三上登さん)の池に放流される実験済みの津軽錦」(モザイク透明鱗)
↑「知人(三上登さん)の池に放流される実験済みの津軽錦」(モザイク透明鱗)