Q&A

よくある津軽錦の疑問にお答えします
Q1) 金魚ねぶたのモデルは津軽錦(金魚)、というのは事実ですか?
Q2) 柳井の金魚提灯と弘前の金魚ねぶたの関係は?
Q3) 「弘錦」という金魚は、「津軽錦」とどう違うのですか?
Q4) 体が細長い個体を「津軽錦」、短いのを「弘錦」と呼ぶそうですが?
Q5) 繁殖中の津軽錦が細長く虚弱に育つようですが、飼育法のポイントは?
Q6) 「秋錦(シュウキン)」と「津軽錦」は違う金魚ですか?
Q7) 「青森県津軽錦保存会」はどんな集まりですか?
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Q1) 金魚ねぶたのモデルは津軽錦(金魚)、というのは事実ですか?

これは難問です。現在、青森市のホームページには、そのような解説があるそうですが、その説の作者はペンクラブ会長の三上強二先生、昭和61年11月の青森県郷土館だよりに掲載された文章が出典です。
この文は封建時代の庶民感情を金魚に託して金魚ねぶたの成立を説く名文ですが、歴史上の事実を語るものではありません。
金魚津軽錦ができた時期は天明年間(1781〜88)と推測されますが、金魚ねぶたはその後に出来たはずです。
文献は見あたりませんが、もっとも古いねぶた行列の絵(奥民図集、平野貞彦1788年)には金魚や魚の灯籠は描かれていません。
金魚ねぶたは発明されていなかったのでしょう。
金魚ねぶたの文献で一番古いものは、意外にも県外、それも山口県にありました。
つまり、鈴木克美著「金魚と日本人」に、幕末のころ山口県柳井市では、津軽から金魚ねぶたを移入して、現在まで続く「柳井の金魚提灯」をつくった。
との伝承が誌されています。
この記事から、津軽の金魚ねぶたは幕末には出来ていたのは確実でしょう。
ただ、津軽錦をモデルにしたか、どうかは多少の疑問が残ります。
金魚ねぶたのように、バレーボールに三角の尾ビレを付けたような魚が実在するとは信じられないし、民芸品にありがちなデフォルメとしても、奇抜すぎると思っていました。
しかし、最近になって、「バレーボールに三角」に近い金魚が池に現れて泳いでいます。
それを見ると「モデルは津軽錦」とする俗説は本当か、と思います。


「津軽の金魚ねぶた」 「ねぶたに似ている形の津軽錦」
↑「津軽の金魚ねぶた」 ↑「ねぶたに似ている形の津軽錦」

Q2) 柳井の金魚提灯と弘前の金魚ねぶたの関係は?

本州の北端と西端にあたる弘前と山口にどんな「つながり」があって金魚の玩具という共通の文化が根付いたのか、
「金魚と日本人」の著者鈴木克美先生もはっきりしないそうです。
先生の所説では、「幕末の柳井地方で疱瘡が流行した。治療法のない当時は、患者はまわり全部を赤いもので囲まれて寝かされ、
ひたすら病魔が去るのを待つほかなかった。江戸時代には真っ赤な金魚の玩具は疱瘡の魔よけであった。」
「そのころ、日本に「種痘」という治療法が伝わった。嘉永2年(1849年)柳井藩は青木研蔵に種痘法習得のため長崎へ出向を命じた。津軽から金魚ねぶたが伝わったのはその頃である。」
鈴木克美先生の記事に関連して弘前市史には次の記録があります。
「嘉永5年(1852年)唐牛昌運、牛痘種をもって子供5人に試み成功」
唐牛医師は長崎での修業を終えて帰国したばかりのようです。
この弘前市史と鈴木先生の柳井藩史から推測されるのですが、青木医師と唐牛医師は長崎の医学熟で同門であった可能性が強いのです。
二人とも藩命で種痘術を学ぶ身ですから、つれつれのままに、疱瘡の呪いである金魚ねぶたなどを教えたかもしれません。
こうして弘前のねぶたは柳井に伝わったのでしょう。


「津軽の金魚ねぶた」 「柳井の金魚提灯」
↑「津軽の金魚ねぶた」 ↑「柳井の金魚提灯」

ただ、残念なことに、現在、金魚の赤い玩具が疱瘡の呪いであったという鈴木説は青森でも山口でも認められていないようです。
では、金魚ねぶたや提灯は、そもそも何のために作られたのでしょうね。


Q3) 「弘錦」という金魚は、「津軽錦」とどう違うのですか?

「弘錦」(「こうきん」または「ひろにしき」)は弘前市の故宮本喜三郎氏が明治から昭和にかけて17年の歳月を費やして研究開発した金魚です。
 (1) 津軽錦には、@ 褪色(赤くなる)するのが遅い A 頭の瘤の発達が遅いといった欠点がありますが、宮本氏はこれを改良しようとしたのです。
 (2) 宮本氏の方法は、純粋な「ランチュウ」と純粋な「津軽錦」との一代雑種(ハイブリッド)を作るもので、できた優秀な個体は、尾が長くランチュウと津軽錦の中間の形になります。
 (3) 松井佳一博士は、この一代雑種を金魚の品種として認めました。
「異品種の交配で常に同様のものが出現する」という「品種の定義」に該当したためです。
したがって、「弘錦」は宮本氏のノウハウで作られる一代雑種、「津軽錦」は津軽錦同士の親から生まれる純粋種、その違いです。


「素赤に変わった津軽錦」
↑「宮本氏の方法による弘錦」

Q4) 体が細長い個体を「津軽錦」、短いのを「弘錦」と呼ぶそうですが?

「弘錦(コウキン)」は弘前市の故宮本喜三郎氏が開発した一代雑種(ランチュウ×ツガルニシキ)で、一代雑種でありながら特別に独立の「品種」と認められたものです。これは、研究者としての宮本氏の栄誉であります。
しかし、残念な事に、体型(体高/体長比)によって「ツガル」と「コウキン」の呼び名を変えるなどという珍説が現れました。
これは1978年に某誌に掲載された捏造記事で、宮本氏の業績をないがしろにし、学問を曲げるものでした。この投稿者は既存の文献さえ読んでいなかったようで、私どもはその投稿を恥としております。
事実は松井佳一(文献;科学と趣味から見た金魚の研究)と、青森県水産資源調査報告書のとおりですので、お話の珍説はご放念ください。


Q5) 繁殖中の津軽錦が細長く虚弱に育つようですが、飼育法のポイントは?

皆さんと異なる私の飼育ポイントを申し上げます。
この金魚の育種試験をおこなった最初(1958年)から、江戸時代の飼育環境を想像し、それに出来るだけ似た条件で繁殖・肥育をおこなっていました。特に越冬(12月〜3月)は飼育池が凍結する寸前の低温です。
この低温を経過することによって、4〜5月の計画的な産卵が可能となります。生まれた仔魚も強健なものが多く、成魚も、ランチュウなどと異なり、機敏な野性的な金魚に育っています。
なお青森市での成長のスピードは
当歳の秋 9〜12p
2歳の秋 15〜18p
3歳の秋 20〜25p
4歳の秋 30p程度が標準です。
温暖な環境で繁殖した津軽錦がひ弱な虚弱体質になることは心配しておりますが、細かい技術は別として、もともと津軽錦は寒冷地の金魚、暖地ではその特性が出ないのかもしれません。


「孵化後15日、第一回選別前」 「孵化後二ヶ月の津軽錦」
↑「孵化後15日、第一回選別前」 ↑「孵化後二ヶ月の津軽錦」

Q6) 「秋錦(シュウキン)」と「津軽錦」は違う金魚ですか?

(1) 秋錦は「ランチュウ」と「オランダシシガシラ」を掛け合わせて作った背ビレの無い形のオランダシシガシラです。(1897年命名)
(2) 一方、津軽錦は江戸時代(おそらく天明(1780年)のころ)に「朝鮮金魚(ランチュウの原型)」と「ただの金魚(ありふれた雑魚の意味)」との交雑から作られました。 津軽錦は第二次大戦で一時中断しましたが、現在は戦前より優れた魚が復元しています。復元の親は「ランチュウ×アズマニシキ」で、普通鱗となる方向に交配・淘汰します。
(3) 交配親は似ていますが、秋錦と津軽錦をくらべて、段違いなのは「金魚品種」としての完成度です。
特に、津軽錦の仔魚背ビレの欠如性は、ランチュウより優り、体型や生物としての運動能力もほかの金魚にまさるという人もあります。
(4) この秋錦と津軽錦の違いは、累代交配の頻度から生じます。復元津軽錦は1959年以降20世代以上の累代交配によって厳しく選別・淘汰がおこなわれ、今も続きます。
一方、秋錦は品種として固定するにいたらず、しばしば途絶した、と文献にあります。市場に流通している魚を見て感じますが、秋錦の固定は現代でも難しいようですね。


「秋錦」 「津軽錦」
↑「秋錦」 ↑「津軽錦」

Q7) 「青森県三輪津軽錦保存会」はどんな集まりですか?

(1) 津軽錦の銘魚を後世に伝える目的で集まった金魚飼育者の集団です。最近、虚弱な金魚が出回っておりますが、その対策をまず広めます。そのため、飼育法の情報を交換します。会員は技術を守り、すぐれた津軽錦を育てる義務を負います。
(2) 会員には無償で銘魚の種苗が配布されますが、どちらの愛好会でも同じですが、育てた津軽錦は勝手に処分できません。自ずからマナーがあります。
飼育専門家の集団ですが、入会は県内から。
高価な津軽錦の種苗を取り扱うのですから、会員となるには原則として会員2名の推薦が必要です。